85歳のトライアスロン世界王者 by 稲田弘 × 山本淳一

85歳のトライアスロン世界王者 by 稲田弘 × 山本淳一

5. 85歳の世界王者 ー2018年ハワイを振り返る

<このページのまとめ>

◆「力の配分」は稲田さんの隠れた強み
◆ レースは感覚で走る、数値はほぼ見ない
◆ 周りの応援と、己の執念が、85歳の世界王者を作った
◆「この練習ができれば本番はOK」という練習を山本コーチが用意
◆「80歳を超えた教科書」はない、稲田さんが出来たことが正解になる

「練習のこなし方」という熟練

山本: 稲田さんが稲毛インターに入ってから、「練習のやり方」がうまくなっています。技術的にではなく、「今日はバイクで走るよ」という時に、1日の全体の力加減や休憩の取り方まで含めた、練習全体のこなし方のことです。数日間の合宿でも同じで、ペース配分が上手くなっています。

その成果が、レースで現れるんです。
たとえば稲田ファンの皆さんは、レースの(チェックポイントの通過時間がわかる)トラッカーをオンタイムで見て、

稲田さんファン
制限時間に間に合いそう!
間に合わない!
と、ハラハラされているじゃないですか。
でも稲田さんは、皆さんが思っているほど焦っていないですから。

稲田: レースでは時間や距離の数字は見ていないからね。(会場驚く)

山本: だって稲田さんがレースで使う時計は普通の時計で、GPSも付いてないんです。その時計すらあまり見ないんですが、それでもハワイの世界選手権では毎年、時間を合わせてゴール帰ってくるですよね。これ自分でも不思議です。

稲田: なんか、時間が合っちゃうんだよね。

 (※アイアンマン世界選手権のゴール制限時間は17時間、途中の関門でも制限時間があります。予選では問題ない制限時間が、コース設定の厳しい世界選手権では稲田さんにとって大きな壁となっています。稲田さんは制限時間を越えてしまった時でも、226kmを走りきり、ゴールには戻ってくることが多いです。)

数字を見ない

山本: そして、稲田さんは心拍計も見ていません。練習では心拍計を付ける時もありますが、レースでは一切見ないです。

稲田: 心拍数はだいたいわかっていて、バイクは毎分心拍150を超えないように、と考えています。それを超えると駄目になっちゃうので。
合宿の時は、みんなに全然付いていけないから、付いていくことのほうが大変で、数字を見ている余裕がないですね。

ランの心拍数は、レースで140、練習で150、くらいと考えています。

山本: このあたりの数字もほとんど感覚です。「どういう動きをすればどれくらい心拍が上がるのか」ということは、これまででだいたいわかっているので。

2018年のアイアンマン世界選手権

― (会場からの質問)今年の世界選手権では最後3km1km6分ペースという速さで走ったと聞いて驚きました。ラストスパートでゴールの制限時間に間に合わせたのかなと思ったのですが、この時も時間は計算していなかったのですか?

稲田: たまに調べることもあります。まあ、1km6分といっても下り基調ですから、たいしたことはないですよ。
ランは途中ですごく雨が降って、寒くて、身体も冷えて、かなり厳しかったんです。歩いたりもしたんだけど、30kmあたりで一度、時計を見て時間を計算したら、

稲田
このままのペースだと間に合わない!
少なくとも歩いたらだめだ、走らないと!
とわかったから、しかたないけど走り続けようと思ったんです。でも厳しくて、何度か歩きたいと思いましたね。
  (※30km地点は夜10時頃、照明もほとんどない真っ暗な溶岩地帯やハイウェイ上で、ライトも携行しながら走ります。レースとはいえ周りにランナーもかなり少なく、前方のランナーのライト、2kmくらい置きに設置されるエイドステーションの灯りを目指して孤独に走ります)

応援があるから走り続けられる

いろいろと助けもありました。沿道で

稲田さんファン
このままだと、あと一分足りない!
と言ってくれる人もいて、それに励まされて走っていました。
スタート前から
稲田さんファン
ゴールで待ってるよ!
と言われてるでしょう。レースでは、沿道のお客さんから、
稲田さんファン
頑張れ!頑張れ!
と応援してもらえる。これが本当に大きな励みになるんです。だから自分が持っている以上の力が出てくる。

それがなければもう歩いてるかもしれないし、やめてるかもしれない。若い人は全然違うんだろうけど、年寄りの動機はそれだけですね。

最後は執念

残り8kmの地点になってくると、あとは精神力です。気持ちだけ。いかに自分に勝てるか。あと何 kmだけ頑張ればゴールできる、と思えると勇気が出てくる。
ここで走り続けることができるのは、執念ですね。だめでもいいから、制限時間を過ぎて失格してもいいから、ゴールしたい。

筋肉痛


  (動画は世界選手権2日後の稲田さんのゴルフショット)

― (会場からの質問)レース2日後に、オハフ島でのゴルフをFacebookに投稿されてましたよね。回復力に驚きましたが、筋肉痛はなかったんですか?

稲田: 筋肉痛はあんまりないんですけど、今年はじめてレース後に筋肉痛になりました。それだけ最後頑張ったんだなと思いましたね。
ただ去年はバイクでストップしてるし、力を出し切れてなかったのはあります。

山本: 去年は筋肉痛おこしてないんです。途中棄権でランを走ってないとはいえ、当時84歳でスイム4 km、バイク180 kmまでは走ったわけですから、それで筋肉痛が起きないのはすごいですよね。

練習の量と質

― (会場からの質問)稲田さんはとても長い距離を練習されていることがわかりましたが、最近、「練習量を抑えて質を高める」というアプローチが注目されているように思います。マラソンの設楽悠太選手も練習で30km以上走らないそうですが、どう考えていますか?

山本: 私が走るなら、「フルマラソンの練習で30 km 走る必要はない」というのはわかります。私はハーフマラソンを走れたらフルマラソンも走れる人間です。だからハーフまでのスキルを上げておいて、フルマラソンを走りきる、という練習ができます。でも稲田さんは、そうではないだろう、距離が必要な人だと思っています。

ただ稲田さんも、1日の練習でのランは30kmまでで、それ以上は走らないです。トータルの練習距離は多くても一回ごとでは抑えています。長い距離の練習はバイク中心です。
コーチとして確実に言えるのは、「合宿メニューを走りきれるなら、レース本番でもバイク180kmまでは安心して乗れるだろう」ということです。

― (会場からの質問)どんな練習が中心なのですか?

山本: バイク・ランで多いのは、LT手前(キツくなりはじめる手前の長距離のペース、乳酸性作業閾値)くらいです。

― (会場からの質問)スピード練習やインターバルなどの高負荷練習はしないんですか?

山本: インターバルはあまりやっていないのですが、ハード区間はあります。
合宿でのバイク10 km+ラン2 km3本のデュアスロン練習は、それに近いですね。
スイムは、インターバルをします。50m×101分サークル、55秒ぐらいで帰ってきます。

稲田: スイムは500m×3本、終わったらダッシュ50m×10本はよくやりますが、厳しいですね。皆さん速いんですが僕は遅いんでね。

― (会場からの質問)筋力トレーニング(筋トレ)はしないのですか?

稲田: マシンを使った筋トレはしないけど、腕立て伏せなど、全身の体重を使うことはしています。

教科書のない世界

山本: 教科書的には「50歳を超えたら筋トレが有効」と言われてますが、80歳を超えた教科書はないので、経験の積み重ねで判断しています。
変化はいろいろとあり、稲田さんも70代と80代では違うので、たとえば、以前は練習をスキップすることはなかったんだけど今は有りにしています。

すでに教科書のない世界に入ってきているので、何が正しいかわからないんです。

山本
稲田さんが今できているんだから、OK なんだろう
と思うほかないです。

きっと世界にもあんまりいないですよね、85歳を指導しているコーチなんて。

(次ページ ” 6. 世界王者の日常 “へ続く)